松田 佳樹

YOSHIKI  MATSUDA

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基本情報

●1988年10月7日生まれ(辰年 てんびん座)

●血液型:B型

●京都府京都市在住

●家族:妻と三毛猫

資 格 

●国家一級自動車整備士資格者

●2級ファイナンシャルプランニング技能士

●コミュニケーション心理統計学マスターコーチ

●一般社団法人 生命保険の正しい見直し方会 認定講師

趣 味

自動車
歴代の愛車はS14シルビア、GDBインプレッサ、MOVE。現在はR32スカイラインとBP5レガシィを所有しています。ドレスアップも走る事も大好きです。

模型、ラジコン
今までに50作品以上作ってきました。小学校6年生の時に全国大会でジュニア賞に入賞しました。専門学校時代にラジコンドリフトにハマり、毎週末のように走らせていました。

写真
一眼レフで綺麗な景色と車を撮るのが大好きです。

音楽
好きなボーカリスト
HYDE(L'Arc〜en〜Ciel)
yasu(Janne da arc・Acid Black Cherry)
京(DIR EN GREY・sukekiyo)

アニメ
頭文字D、湾岸ミッドナイト、るろうに剣心、鬼滅の刃、美味しんぼ

学 歴

●安井幼稚園(黄組、すみれ組)

●京都市立太秦小学校(卓球部)

●京都市立太秦中学校(パソコン部)

●京都府立嵯峨野高等学校(水泳部)

●トヨタ名古屋自動車大学校 高度自動車科(ラジコン同好会)

職 歴

●京都ダイハツ販売株式会社(整備士、営業)

●ソニー生命保険株式会社(ライフプランナー)

●現在
 保険代理店、パーソナルシードマスターコーチ

誕 生

フランス料理人の父と学習塾の事務をしていた母の元に1人息子として生まれました。生まれた直後に原因不明の高熱を出し、一時は危険な状態になったそうです。物心ついてからも頻繁に風邪を引き、しんどい思いをしたのを覚えています。身体が弱く運動も苦手だった私に「何か1つだけでも得意な事を持たせてあげたい」と3歳からスイミングスクールに通わせてもらいました。
そのおかげで小学生になると徐々に体調を崩す頻度は少なくなり、相変わらず体育は苦手でしたがプールの授業がある夏場だけは嬉しかったのを覚えています。 

車との出会い

車好きになったきっかけをはっきりとは覚えていませんが、両親がF1好きだったのでテレビで見たり、鈴鹿サーキットに連れて行ってもらったりと車と接する機会を与えてもらっていたからかもしれません。とにかくトミカが大好きで飽きずに毎日のように遊んでいたことを今でもよく覚えています。両親曰く、外に連れて行くと見かけた車のメーカーを次々と言い当てていたそうです。
まだローマ字を読めなかった頃ですが、「NISSAN」など自動車メーカーのロゴだけは、なぜか理解できていたのを覚えています。

将来の夢、2度の挫折

これほどの車好きだったため「将来は車を開発する仕事がしたい」と思っていました。高校生になり具体的な進路を考えるようになった頃、「自動車開発の道に進むためには工学部に進まなければならない」という事が分かりました。

しかし、私は数学と物理が大の苦手です。

偶然にも担任の先生が車好きな方だったので、「ある程度レベルの高い大学に行かないと自動車メーカーの求人はこない。今のレベルでそういう大学を目指すのは相当厳しい」と言われ、「自分はモノづくり世界には向いていないのだ……」と痛感し、車を開発する夢を諦めました。

それからしばらく経ったころ「自動車整備士の資格を取得して、車の開発に関わる道もある」という事を教えて下さり、自動車整備士の最高資格である「国家一級自動車整備士」になる事を目指して、愛知県にあるトヨタ名古屋自動車大学校に進学しました。

国家試験合格に向けての勉強は大変でしたが、初めての一人暮らしと、車好きの友達と思う存分車を楽しんで過ごした日々は最高の思い出です。

就職活動の時期となり、例年通り多くの求人情報が張り出されていたものの、私の年だけは状況が違いました。リーマンショックの影響で開発系企業からの求人は激減。説明会に参加すると

「今年は採用しない可能性が高い」との事……。

 私の学校では第一志望の企業しか就職試験を受けられないルールでしたので、第一志望に落ちた事が確定するまで次の企業を受ける事が出来ませんでした。その為、開発系企業を第一志望にして万が一採用枠が無かった場合、就職活動の時期がほぼ終了してから再度就職活動をすることになり、その時点でどこの会社の採用枠も残っていなければ就職が出来ません。

自動車の開発を夢見て進んだ道でしたが、「採用しない可能性が高い」と言っている企業を第一志望にする事は出来ず、泣く泣く自動車ディーラーへの就職に進路を変更しました。

ディーラー整備士へ

トヨタ自動車が運営する学校なので、ほとんどの生徒はトヨタディーラーへ就職するのですが、当時は大きい車を手放し、小さくて経済的な車への乗り換えが盛んな時期でしたので「今後は軽自動車の方が伸びていきそうだ!」と考え、京都ダイハツ販売株式会社に就職しました。

そして、合格率22%だった国家試験に何とか合格することが出来、晴れて国家一級自動車整備士になりました。

自動車整備士として、社会人1年目がスタートしました。最初は工場の掃除、洗車、オイル交換などの軽作業が中心でしたが、徐々にエンジンの分解といった重作業も任せてもらえるようになりました。

特に嬉しかったのは、メーカーから2度表彰をいただいたことです。整備作業をする中で気付いた事を本社に報告出来る制度があり、元々開発の仕事をしたかった私ですので、技術的なレポートをまとめることは楽しく出来ました。そのレポートに対して1年間に2回も感謝状をいただいたことは本当に嬉しかったです。

日々仕事量が増えていき、1分1秒時間に追われる環境の中で、人命に関わる仕事をするプレッシャーから徐々に整備作業が怖くなってしまいました。不安と時間に追われる状況の中で我慢しながら仕事をし続けた結果、最終的にうつに近い状態になってしまい整備士を辞める決断をしました。

パーソナルシードで自分の本質を理解している今となっては、時間に追われる環境が自分には全く合っていなかったことが良くわかります。

初の営業職に最初は戸惑いましたが、車検・点検の獲得は得意で社内表彰もいただきました。自分で作業をしていたからこそ、各作業の重要性などを身を持って分かっていたので、それがお客様にも伝わっていたのだと思います。
逆に新車の販売は常に全社平均ぐらいの成績でした。新車の営業としてはダメなことですが、私自身が「気に入っている車は直して長く乗りたい」という人間なので、お客様に対しても積極的に乗り換えを勧められませんでした。

転機が訪れる

営業になり5年が経過した頃、「自分はこのまま サラリーマンで終わっていいのか……」という誰でも抱く思いが、ふと芽生えました。しかし、その思いは強いものではなく、新たに始めた労働組合の執行員にもやりがいを感じていて、「このままでもいいか」とも思っていました。

その後、突然自分が生命保険に加入していた「ソニー生命」の担当者から転職のお誘いを受けました。
「生命保険のセールスなんて大変そう」と最初は全く興味ありませんでした。ところが「個人事業主という生き方について話を聞きに来てください」という一言に興味が湧き、紆余曲折はあったものの、会社の方針がコロコロ変わる環境に疑問を感じていた私は、「会社に指図されることなく、全て自分の考えで 仕事が出来る」という環境に魅力を感じ、無謀にも完全歩合制のセールスとして、ソニー生命保険株式会社に転職しました。

丁度この頃に結婚しましたので、「売れなくて食べていけなくなりました」では洒落になりません。

サラリーマン時代には「自己投資」という言葉すら知らなかった私ですが、「何としてもこの業界でやっていけるようになろう」と、多額の費用と時間をかけて数多くの勉強をしました。しかし今一つ成果には結びつかず、その頃よく見ていた保険営業向けのYoutubeでたまたま紹介されていた方の本に興味が湧き読んでみました。するとその本には、今まで学んできたやり方が「全て間違いである!」という事がはっきりと記されていました。すぐに「この方からもっと学びたい!」と思い、私にとっては清水の舞台から飛び降りるような受講料のセミナーでしたが、受講を決意し開催地の静岡県に向かいました。

現 在

セミナーでは、生まれて初めて「目からウロコ」を体感しました。なぜ保険営業は「すぐ辞める」「嫌われる」「大変だ」というイメージが世の中に浸透しているのかが明確に分かったのと同時に、

「顧客第一」と教えられ自分もお客様の為になっていると思ってやっていたことが、実際には「顧客無視」になっていたことに気付かせてもらいました。

また、サラリーマンから個人事業主に憧れてこの業界に飛び込んだにも関わらず、他業種の個人事業主の方から「そのレベルでふざけるな!」と怒られても仕方がないほど、認識が甘かったことを痛感しました。

そして、ソニー生命に居ては仕事のやり方に制約が多くあり「自分の長所を活かしたやり方で仕事が出来ない」=「お客様に今以上に喜んでいただく事は出来ない」という事が分かり、現在所属の乗合代理店に移籍しました。

移籍したことで、今まで出来なかった「車好き専門の保険屋」としての活動やパーソナルシードを使って「人間関係の悩みを解決する」という事でも お客様から喜んでいただけるようになり、私自身も日々楽しく仕事をしています。

理 念